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 1905年、実技学校を離れたアドルフは、母親のいるリンツに戻りましたが、家の中では専横的に振舞っていたのに対して、社会に対しては消極的であり、昔の友人と会う事も避けていたようです。しかしアウグスト・クビツェクという同年代の青年とは交流を持つようになっていました。クビツェクは父親のアイロスと同じく小学校を卒業後、直ぐに働きだしていた事もあり、実技学校を離れていたヒトラーには憧憬を抱いていたと言います。他にシュテファニーという女性にも熱を上げていたと言われ、実際にアドルフは後に結構の申し込みを書いた手紙まで送っていたと言います。このリンツはアドルフにとって第二の故郷となっていた様で、後にナチス総統に就任した時に、都市改造計画を実施しようとまでしていました。

 アドルフの人生を見ていく事を急ぎます。1907年4月、18歳になったアドルフは法律上、700クローネ相当の父親の遺産分与の権利を得たと言いますが、これは郵便局員の年収と同じであったと言います。この遺産と遺族年金の仕送りを母親から貰い、アドルフはウィーンの美術アカデミーを9月に受験しました。しかし結果は不合格となりました。ウィーンに出向いている間、アドルフは故郷との連絡はなるべく避けていましたが、同年10月に母親のクララは乳癌となり、医師はアドルフの妹に余命宣告を行いました。この時には流石のアドルフもウィーンから実家に戻り、変わり果てた母親の姿を見て呆然としたそうです。この時、一生を通して初めてアドルフは家事を手伝う様になり、痛みで苦しみ、すすりなく母親の傍を片時も離れず看病にいそしんだと言われています。そして12月に母親のクララは病没、享年47歳。葬儀が終わった後、医師の下をヒトラーが訪れ、出来うる限りの治療をしてくれた事に心からの感謝を述べたと言います。その様子について医師は「わたしの一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった」と回想しているほどでした。

 その後、翌年の1908年2月にアドルフは再度ウィーンに出向き、12月に美術アカデミーを受験しましたが、再度失敗。この時には友人であるクビツェクの前からも姿を消しましたが、これは受験に失敗した事を知られたく無かった事と、懲役忌避の為であったと言われています。

 その後、1909年11月末頃までの、住所不定の無宿人として放浪生活を送っていた様ですが、その結果、浮浪者収容所に入り、次いでメルデマン街の公営寄宿舎に住んで、絵葉書の版画の模写やインテリ層への絵画の販売を行っていたと言われています。

​ 1911年に実姉から「孤児恩給全額」を妹パウラに譲る様に裁判を起こされ、孤児恩給の放棄に同意したと言います。この頃のアドルフは、食費を切り詰めても歌劇場に通うなど、ワーグナーに心酔していたとされていて、暇なときには図書館から多くの本を借りて歴史や化学等に関して、かなりの知識を得ていったと言われています。この時に習得した知識の中に人種理論や反ユダヤ主義といった思想、またキリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーや汎ゲルマン主義に基づく思想に傾倒したと言われています。

 1913年5月、24歳になったアドルフは隣国ドイツの南部にあるミュンヘンに移住し、下宿生活を送っていました。アドルフは「我が闘争」の中で、この移住について「オーストリアとウィーンの腐敗した環境に耐えられなかった」と述かいしていますが、その実態は兵役忌避であったと言われています。しかしこの兵役忌避と逃亡の罪名でリンツ警察は操作を始め、1914年1月にミュンヘン警察に逮捕されてしまいます。しかしザルツブルグで行われた検査で、(兵役)不適格の判定となり、からくも罪は免除されました。

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​ 1914年8月1日に勃発した第一次世界大戦では、バイエルン王宛てに請願書を送り志願したと言いますが、この心変わりの裏には何があったのか定かではありません。ただ請願書を送った翌日には義勇兵として入営を許可されて、アドルフはバイエルン第16予備役歩兵連隊の伝令兵として配属されました。ここでアドルフは終戦までの期間に、様々な幸運に見舞われ6回受勲しました。階級は兵長のままで、6回という受勲の数に比べると低い階級のままで終戦を迎えた事になります。

 この大戦末期の1918年10月15日、アドルフは敵軍のマスタードガス攻撃で視力を一時的に失ったと言います。しかしこの事でアドルフ自身は「ドイツを救う事」に使命がある事を確信したと言い、視力の回復についても超自然的な幻影を見て回復したと述かいをしているのです。

​ 1918年11月、アドルフは第一次世界大戦がドイツの降伏で終わった事を知り、激しい動揺を見せた兵士の一人であったと言います。この事からアドルフは民族主義者や国粋主義者の間で流行した「敗北主義者や反乱者による後方での策動で、前線での勝利が阻害された」とする、背後からの一突き論を強く信じる様になりました。

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