◆政界進出
この頃からアドルフは政治家への転身も考え始めましたが、軍に在籍する道を選び、陸軍病院から退院すると部隊の拠点地であるバイエルン州へと戻りました。バイエルン州では1918年12月にバイエルン革命によりバイエルン・レーテ共和国が成立していて、バイエルン陸軍も当初はこれを支援していました。アドルフも1919年2月16日からミュンヘンのレーテに入り評議会委員となりました。そして4月15日のオイゲン・レヴィーネ政権下のバイエルン・レーテ共和国で大隊の評議員に立候補し、19票を獲得し当選しています。
それから暫くしてバイエルン・レーテ共和国がバイエルン民族主義の支持を受けてドイツ共和国(ヴァイマル政権)から独立を宣言すると、穏当な対応を続けてきた中央政府も遂に鎮圧へと乗り出しました。この時、アドルフは中央政府の告発委員会に加わりました。
中央政府軍の進軍に合わせて右翼の退役軍人による蜂起が起きる中、アドルフは共和国軍のスパイにスカウトされ、潜入調査に必要な教養を与えられたと言います。1919年7月、アドルフは正式に共和国軍の情報提供者の名簿に軍属情報員として登録され、諜報組織の末端に加わりました。アドルフに与えられた任務とは、革命政権を支持する兵士達への政治宣伝と、その一方で当時、台頭しつつあったドイツ労働者党(DAP)の調査でした。
ところがアドルフは、ドイツ労働者党の党首、アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義・反資本主義の演説に感銘を受けて、逆にドイツ労働者党へと取り込まれてしまいます。ドレクスラー氏もアドルフの演説力の高さを評価し、55人目の党員として加える事にしました。ここでアドルフが出会った人脈に、トゥーレ協会の思想家ディートリヒ・エッカートがいます。アドルフが何時、軍から離れたかは定かではありませんが、ここで行った過激な演説により、アドルフ・ヒトラーの名前は周辺国へと広がり、ドイツ労働者党の中でもエルンスト・レーム元陸軍大尉、ルドルフ・ヘスらがヒトラー派を形成し、党内を次第に制圧する存在へとなっていきました。
1920年2月24日、ルドルフは党内協議を経て党名を「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP:蔑称・ナチス))と改名しました。しかし1921年7月29日に党内で分派活動が起こり、一度は党内から追放されますが、党内クーデターにより第一議長にルドルフは指名され、この事から「ヒューラー(総統)」と呼ばれる様になり、党内にその呼称が定着していったと言います。
この後、「ミュンヘン一揆」や権力闘争を経て、ナチ党がドイツ国内の政党で躍進し、アドルフが首相に就任、その後にドイツ国内で独裁政権を樹立して行ったのは歴史的に有名な事ですが、この協力な独裁政治の元で、ドイツ国内では様々な科学技術が発展して行ったのです。