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​2―1.ナチスドイツについて
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 ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称です。社会のほぼ全ての側面でナチズムの考え方が強制される全体主義国家となり、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結する1945年5月に連合国軍に敗北し、滅亡しました。

◆ナチズム

 1933年から1945年までの間、ナチス・ドイツの公式イデオロギーとされ、ナチズム以外の政治的立場から極右に分類されてあげらる場合が多くります。

 アドルフ・ヒトラーはこのナチズムを「あらゆる活動を拘束し、義務付ける法則」という「一個の世界観である」と定義し、またナチ党の運動の目的は「全てのドイツ人の生活が(ナチズムの世界観という)根本的価値に基づいて形成され、日々新たに営まれるようになる」という事だとしました。またこの「ナチズムはドイツ民族のためのみ生み出されたもの」であり​「決して輸出品とならない」思想であると考えていた事から、人類普遍の法則とは考えていなかった様です。

◆アドルフ・ヒトラー

 ナチスを語るにはアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を無視しては語れません。ヒトラーはオーストリア・ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州で1889年4月に生まれ、国籍はドイツ人ではなく、オーストリア人でした。現在のオーストリア国民の大多数がそうですが、ドイツ民族に属すると言われ、1932年にブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官に任じられ、その時にドイツ国籍を取得したと言われています。

 実はこのヒトラー家の出自については謎が多くあり、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っており、その出自を詮索される事も非常に嫌い「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べたそうです。これは恐らく自身の出自の家族が、とても低い身分の中で生活し、そこで生きていた事に対する姿勢であったのかもしれませんが、その考え方について実妹のパウラでさえ「兄には一族という意識がなかった」と語る程でした。

 記録によると1889年4月20日の午後6時30分、当時一家が暮らしていたオーストリアのブラウナウにある旅館で、父:アロイス・ヒトラー、母:クララ・ヒトラーの四男として出生したと言います。2日後に洗礼を受け、アドルフ・ヒトラーと名付けられました。ヒトラーが3歳の時、ドイツ帝国バイエルン王国のパッサウ市へ転居、オーストリアからバイエルン方面に移住した事により、ヒトラーの「バイエルン訛り」はそこから来ていると言われています。

 アドルフ・ヒトラーの父、アイロスは靴職人でしたが上昇志向の強り人物であったようで、19歳の時に税務署採用試験に独学で合格し、懸命に働く事で補佐監督官、監督官を経て最終的には税関上級事務官まで勤め上げた人物でした。1895年、リンツに単身赴任していた父、アイロスが定年退職で恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎に引っ越し、農業と養蜂業を始めたと言います。

​ 1896年、アドルフの異母兄が父親との口論で家出して帰らなくなり、後継ぎとなったアドルフは1897年まで国民学校に在籍していた記録があるそうでしたが、学校にも通わず父親との間で諍いも多く起こす様になったようです。1897年に、父親が行った農業と養蜂業は失敗し、一家は農地を手放してランバッハ市内に定住し、アドルフはそこでベネディクト修道会の小学校に在籍し、聖歌隊の所属するなど、キリスト教を熱心に信仰し、聖職者になる事を望んでいたと言います。

 アドルフが7歳から12歳までの期間、父親アイロスとの関係は悪化の一途であった様です。父親が隠居の身分で自宅に多くいる事が多く、また農業の失敗に対するいら立ちもあってか、度々幼いアドルフに対して鞭を使った折檻をしたと云われています。また父親は靴職人から税関上級官吏になった事が一番の誇りであり、後継ぎのアドルフを税関事務官にする事を望んでいました。しかしこれが余計に父子の関係を悪化させました。アドルフが最初にドイツ民族主義に傾倒したのもこの頃だと言われていますが、その背景には、父親のアイロスが大ドイツ主義を毛嫌いしていた事があったからだとも言われています。

 1901年、田舎の小学校で学んでいたアドルフは都会の授業についていけず、リンツ実科中等学校一年生の時に必須の試験に不合格となってしまい、留年してしまいました。其の後、幾度か竜ねんを繰り返しながら、四年生への進級を認めてもらう代わりに自主退学となり、結果、アドルフの学歴は父親アイロスと同じ小学校卒となりました。そして父親のアイロスは1903年、アドルフが14歳の時に病没しました。享年65歳であったと言います。

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