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​3―3.ナチス科学者のその後
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 さて、ここでペーパクリップ作戦の事に話題を戻します。

 対日戦が終了した1945年8月にも、このペーパークリップ作戦は継続され、同年9月に最初のグループとしてヴェルナー・フォン・ブラウン、エーリッヒ・W・ノイベルト  、テオドール・A・ポッペル 、アウグスト・シュルツ 、エーバーハルト・F・M・リース  、ヴィルヘルム・ユンゲルト 、及びヴァルター・シュヴィデッツキー の7人のロケット工学者がドイツからアメリカのフォート・ストロングに到着しました。

 彼らロケット工学者達は最終的に、アメリカ陸軍省特別職員として、ホワイトサンズ性能試験場でのロケット試験のために、テキサス州のフォート・ブリスに到着しました。

 また1950年代前半、科学者達はメキシコから合法的にアメリカに入国し、そこのアメリカ領事館でビザが発行されましたが、このとき若干の「ペーパークリップ・スペシャリスト」に法的(制限が課された)身分が与えられ、後の10年にわたって一部の科学者の戦時中の活動が調査されたといます。

 アルトゥーア・ルドルフはV2ロケット製造工場のあったノルトハウゼンのドーラ強制収容所と関係し、ゲーリングの航空省航空医学研究所長フーベルトゥス・シュトルクホルトは海上に不時着したパイロットを助けるために、また、高高度を飛行する爆撃機パイロットに対する影響を研究する人体実験に関与していた事も判明しました。

 

 86人の航空学の専門家はライト・フィールドに移され、それはラスティ作戦(ドイツの航空機に関する機密情報、器材及び人員を捕らえることを目的とした活動)の下で航空機その他の器材を得ました。

 アメリカ陸軍通信処は24人の専門家を雇用しました。物理学博士のゲオルク・ゴウバウ、ギュンター・グットヴァイン、ゲオルグ・ハス、ホルスト・ケデスディ及びクルト・レフォフェック、物理化学者のルドルフ・ブリル教授、エルンスト・バールス博士及びエーバーハート・ボス博士、地球物理学博士のヘルムート・ヴァイクマン、技術光学博士のゲルハルト・シュヴェシンガー、そして電子工学博士のエードアルトゲルバー、リヒャルト・グエンターとハンス・ツィーグラーを含んだといいます。

 アメリカ鉱山局は、1946年にミズーリ州ルイジアナの合成燃料工場で、7人のドイツの合成燃料科学者を雇用しました。

 1959年に、フリードヴァルト・ヴィンターベルク、ハンス・ドレツァレークとフリードリヒ・ヴィガントを含む94人のペーパークリップ個人がアメリカに渡りました。1990年まで、アメリカとイギリスは、ペーパークリップによって約100億ドルと評価される「知的賠償」(主にドイツの特許と産業プロセス)を伴う合計1600人の人員を得た事になるのです。

 つまりペーパークリップ作戦により、ナチスドイツの高度な科学力は、アメリカが継承した事を意味しますが、これは果たしてアメリカがナチスの技術力を得たという単純な構造なのでしょうか?

 もしかしたらナチス内部にあった科学集団が、ヤドリギとしてナチスからアメリカ合衆国に宿主の移動をしたという事も考えられるのではないかと私は思います。何故ならば、ナチスドイツからアメリカへ移住した(させられた)科学者たちは、その後も活動を続け、それが今のアメリカの軍産複合体の中の中核人物として活動をしていた事から、その様に思えるのです。

 先のハイジャンプ作戦ですが、これはアメリカがナチス残党を掃討する事を目的として実施した作戦なのですが、その敗北と、その事からナチスの「第四帝国」という思惑の中に、アメリカ合衆国が取り込まれてしまった。その様な事は無かったのか。

​ その事が私はこれらの事を通して気がかりになってしまいました。

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