3.ナチスからアメリカへの技術承継
さて、第二次世界大戦でナチスドイツは敗戦し、表の歴史上、消滅した事になりました。そのナチスドイツのアドルフ・ヒトラーは1945年4月30日に、総統地下壕で自殺したと言われていますが、実際に死亡していたのかは明確になっておらず、ヒトラーの死体と言われていたものも実は別人であっと言われています。
ただしナチスドイツの持っていた科学技術は、アメリカへと継承されていく事になったのですが、この継承される過程に関係して大きな二つの事柄があると私は考えています。その事についてここで少し概要をまとめてみます。
3―1.ペーパークリップ作戦
ペーパークリップ作戦(peration Paperclip)は、第二次世界大戦末から終戦直後にかけてアメリカ軍が、ドイツ人の優秀な科学者をドイツからアメリカに連行した一連の作戦のコード名の事です。別名、ペーパークリップ計画 (Project Paperclip) とも呼ばれ、1945年、統合参謀本部に統合諜報対象局 が設けられ、この作戦に関する直接的な責任が与えられました。
◆オーゼンベルク・リスト
ドイツ軍需産業界は長期戦に対する準備ができていなかったために独ソ戦の長期化とアメリカの参戦が続き、戦略上不利な立場に立たされていました。そこでドイツは兵器の研究開発に活かすことができる技術を持つ科学者と技術者を前線部隊から呼び戻す取り組みを1943年の春から開始しましたが、それ以前は科学者や技術者の徴兵猶予の制度は存在しませんでした。
この科学者と技術者を前線から呼び戻すためには、最初にその人材を特定し、特に彼らの忠誠心を推し量るために更に追跡調査を必要としました。その調査結果は国防研究団体代表のハノーファー大学の工学者ヴェルナー・オーゼンベルクによってまとめられました。これがオーゼンベルク・リストです。1945年3月に、ポーランド人の実験助手はきちんと流されていないトイレで細かく破られたオーゼンベルク・リストの切れ端を見つけました。アメリカ軍の兵器開発部局であるアメリカ陸軍武器科とジェットエンジン開発部門のロンドン支部の責任者であったロバート・B・ステイバー少佐は、尋問すべきドイツ人科学者のリスト(ブラック・リスト)をまとめるためにオーゼンベルク・リストを用いたと言います。「ブラック・リスト」はコード名であり、そのリストの筆頭には、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンの名前がありました。
◆オーバーキャスト作戦
ロケット工学者のみを尋問しようとする当初の計画は、1945年5月22日にステイバー少佐が国防総省に緊急の外電を送った後、「太平洋戦争遂行のために重要」としてドイツ人技術者とその家族を米国に避難させるように変わりました。また、そのとき同様に強く求められていたのは、ソビエト連邦にドイツ人技術者の持つノウハウを与えないことでした。アルソス・ミッション(英語版)では、ドイツの核エネルギー計画の頭脳であったヴェルナー・ハイゼンベルクは、「彼の存在は我々にとってドイツ軍10個師団より価値がある。」とさえ言われていました。
ロケット工学と原子核物理学を専門とする科学者に加え、様々な連合軍のチームがドイツ人の化学戦(神経ガス)、軍事医学(航空医学)及びUボート兵器の専門家も探し出そうとしていました。アメリカ海軍は1945年5月にヘルベルト・A・ヴァークナー 博士を獲得していたのです。ヴァークナー博士は最初にロングアイランドNYマンションで、それから1947年に海軍航空ステーション・ポイント・マグーで雇われました。
大部分の科学者はV2ロケットと関係しており、ロケット技術者は最初にドイツ・バイエルン州ランツフートの住宅団地に彼らの家族とともに収容されました。オーバーキャスト作戦という秘匿名称は1945年7月19日に統合参謀本部によって命名されたましたが、ランツフートの住宅の通称に「キャンプ・オーバーキャスト」が公然と使われていたため、秘匿名称をペーパークリップ作戦に変更されたのです。1958年までに、ペーパークリップ作戦の多くの側面が一般に知るところとなりました。同作戦については、フォン・ブラウンに関するタイム誌記事でも公然と言及されていたと言います。
なお、つれて来られた科学者の中にはシューマン共鳴で広く名を知られることになるヴィンフリート・オットー・シューマン博士(ブリル協会の科学部門の責任者で親衛隊SSのE4セクションとの共同で特殊な航空機の開発に関わっていたと伝えられる人物)も含まれています。