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​2―2.トゥーレ協会

 トゥーレ協会とは1918年にドイツのミュンヘンで結成された秘密結社であり、その組織名称はゲーテ「ファウスト」等にも登場する伝説の地「トゥーレ」から命名されたと言われています。超国家主義・反ユダヤ主義を標榜し、第一次世界大戦後のドイツ・バイエルン州で勢力を拡大し、レーテ共和国打倒に大きな影響力を及ぼし、後の国家社会主義ドイツ労働者党(蔑称:ナチス)の母体の一つともなりました。

 この協会は右翼政治結社であるゲルマン騎士団の委託を受けたルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフにより、騎士団の非公式バイエルン支部として設立されたと言います。正式名称を「トゥーレ協会・ドイツ性のための騎士団」といい、鍵十字(ハーケン・クロイツ)と剣をシンボルマークとしています。

◆ゲルマン騎士団とは

 ゲルマン騎士団とは、20世紀初頭のドイツの秘密結社と言われ、反ユダヤ主義者であるデオドール・フリッチに指導された帝国ハンマー同盟の秘密組織として、ヘルマン・ポールら何名かの著名なドイツのオカルトイストにより1912年に結成されたと言います。

◆ルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフ

 トゥーレ協会の創立者であるルドルフは自らを「ルドルフ・ゼボッテンドルフ男爵」と呼んでいたが、これは経歴の詐称であり、彼は貴族出身者ではなく労働階級の出身者でした。

 本名を「アダム・アルフレート・ルドルフ・グラウアー」といい、1875年にドレスデン近郊のホイエルスヴェルダという町で出生したと言います。彼の父親は蒸気機関車の運転手で、息子であるルドルフを熟練工にしようと、工学の教育を受けさせようとしましたが、彼はそれを拒否して1898年に船乗りとなりました。

​ そのままオーストラリア・カイロ・トルコのイスタンブールを放浪する中、1900年に彼は一旦、トルコに落ち着き、そこでエンジニアとなりますが、ここでオカルティズムに接触、彼はスーフィズム(イスラム教神秘主義)に夢中となり、ユダヤ人の友人となって、その友人の紹介でフリーメイソンにも入団したと言います。ここで彼はバタクーシ派と呼ばれるイスラム教錬金術にも魅了され、この研究を行い、1924年に「古代トルコのフリーメイソンの行法」という書籍をまとめました。

 1902年にルドルフはいったんドイツに帰国しますが、何らかの詐欺事件を起こし逮捕、その後よくわかりませんが、トルコに戻ってしまいます。そして1911年にはトルコ国籍を取得し、1912年にはトルコ在住のドイツ貴族であり「ゼポッテンドルフ男爵家」の養子になったと主張、これが真実かどうかはわかりませんが、彼自身、これ以降「ゼポッテンドルフ男爵」と名乗る様になったと言います。

 1913年に再度、ドイツに帰国しますが、そこで当時の占星術の最大の団体である「ドイツ占星術協会」の機関紙の編集長になり、研究所も執筆、高い評価を得る事になりました。

 1916年に彼は「ルーン文字」に興味を示し、そこで「ケルマン騎士団」に接近し、ヘルマン・ポールと知り合い、またグイド・フォン・リストの「アルマネンシャフト」という思想体系に傾倒していったと言います。そしてそこで「反ユダヤ主義」に共鳴したと言うのです。

 このトゥーレ協会ですが、ゲルマン騎士団のグイド・フォン・リスト、アドルフ・ヨーゼフ・ランツの思想をナチスとの間で橋渡しをするのに極めて重要な役割を果たしましたが、実際のところ、ヒトラー自身も次第にトゥーレ協会を排除する様になり、1930年代になると、この組織は弾圧をされる事となっていきました。ゼポッテンドルフ自身も1919年にはトゥーレ協会を退会した事から、その位置づけについても類推する事が出来ると思うのです。

 ドイツの主権を握ったナチスは、トゥーレ協会のようなオカルト結社と関係があったことは、過去の汚点とみなしていたようです。そのため、このゼポッテンドルフが著作した本は発禁となり、ゼポッテンドルフも逮捕されてしまいました。彼はすぐに釈放されたのですが、そのままトルコに舞い戻り。そしてトルコのドイツ情報局で働いていたと言います。
 

 1945年、ドイツ降伏の知らせを聞くと、ゼポッテンドルフは海に身を投げ、自殺しました。
 

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