8.UFO関連プロジェクト
アメリカでは、様々なUFOフラップ(出現、飛行事象)があったこともあってでしょうか、公的機関でこの問題の調査機関が立ち上げられました。ここではこのアメリカで立ち上げられた政府主導の研究調査機関に関して概要をまとめます。
◆プロジェクトサイン
1945年から増加していたUFO目撃問題については、AMC(アメリカ空軍 航空資材コマンド)という部署がも目撃情報を収集していました。AMC司令長官のネイザン・トワイニング司令官は、陸軍に対して本格的な研究機関を設置してほしいという要望書を提出しましたが、その書簡の中で「航空機に匹敵する大きさ」の「円盤状の物体」が存在している事、そしてその物体は「猛烈なスピードや機動性」を誇る事などが記載されていたといいます。
当時のアメリカはソビエト連邦と東西冷戦の始まりの時期であった事もあり、この未確認飛行物体はソ連邦の秘密兵器の可能性もあると考え、1947年に「プロジェクト・サイン」という計画を立ち上げました。
このプロジェクトを創立後の2週間前に前述のマンテル大尉事件が発生し、スタッフはより熱心にUFO問題について調査をする事になりましたが、その結果、プロジェクト内でも「誤認派」と「自然現象と地球外起源説派」に別れ、一時的には後者の「地球外起源説派」が優勢となり、1948年には識別能力のあるパイロットが葉巻型UFOを目撃するというイースタン航空事件も起き、スタッフは「UFOは地球外起源のものであることを示している」という調査結果をまとめました。
しかし空軍長官であるホイト・バンデンバーグ長官はこの調査結果を「根拠に乏しい」と判断し焼却となりました。そして1949年にプロジェクト・サインが行った調査では「エイリアンクラフトとしてUFOの存在を肯定する明確な証拠はない」とされたのです。
◆プロジェクトグラッジ
1948年に「プロジェクトサイン」は「プロジェクトグラッジ」と改名され、プロジェクトの焦点は「UFO現象の調査」という事から「UFOを目撃した人々の心理調査」という方向にシフトをしていきました。この調査は機密扱いとされ、半年後の1949年には既に最終報告が提出されていました。
その報告書ではUFOの目撃例の23%が「識別不能」として残りましたが、そうした例についてプロジェクトグラッジでは「心理的説明」で対応しました。そしてプロジェクトグラッジでは、最終的にUFOは自然現象の誤認であるか、目撃者の集団的ヒステリーであると結論をつけたのですが、そういった分析には偏りがありました。
しかしそういった調査報告とは関係なく、1949年当時のUFO目撃例は増加していったため、アメリカ空軍は「UFO調査機関が存在する」という事実自体が、人々に不安を与える要因であるとし、1949年にプロジェクトグラッジは解散となりました。
ドナルド・キーホー氏
◆プロジェクトブルーブック
1951年には円盤型のUFOが続き、1952年になるとUFO目撃例は爆発的に増加していきました。そしてUFOへの一般的な関心が高まる中で、エドワード・ルッペルト空軍大尉は解散されたプロジェクトうらっじを再編し、プロジェクトブルーブックとして1952年に再編しました。
プロジェクトブルーブックでは報道機関に協力し、大衆にUFO情報を出来るだけ説明するという方針に変更し、ライフ誌等がこれに協力、UFOを扱った記事を掲載すると、アメリカ空軍にはUFOの問い合わせが殺到し、プロジェクトは日常業務に支障をきたすまでになっていきました。
更にこうした中で先に紹介したワシントンUFO乱舞事件が発生し、UFO目撃ウェーブはピークを迎える事になりました。こうした膨大な目撃報告によって、プロジェクトブルーブックで科学コンサルタントとして任命されていたアレン・ハイネック博士を始め、UFO地球外起源説を真剣に検討しようとする人々が、プロジェクト内に増加していきましたが、アメリカ空軍の上級将校やCIA等の情報機関は「国家安全保障にとってUFO問題は脅威となり、社会的に不安を与える事から、その目撃報告を減らす事が重要である」と考えたのでした。
この動きに対して、1953年1月にCIAは、このUFO問題を評価する会議を立ち上げました。その会議はカリフォルニア大学のH・P・ロバートソン博士が議長を務めた事から「ロバートソン査問会」と呼ばれる事となりました。この会議では複数の科学者や空軍、CIAのメンバーが参加しましたが、査問会によるUFO研究の結論は「UFOは国家安全保障に対する直接の脅威は示していない」「UFO報告に価値ある科学的データは含まれていない」「UFO報告は集団ヒステリーを発生させ、社会的潜在的脅威を生み出す」という内容でした。
この1950年代初頭からUFO目的報告が増加し、大衆の関心が高まってきた事から、当時のマスコミではUFOをエイリアンクラフト(異星人の乗り物)として紹介する記事が増加をしていきました。その中でトゥルー誌は、ドナルド・キーホー退役空海兵隊少佐による「空飛ぶ円盤は実在する」という記事を掲載し、注目を浴びました。トゥルー誌は続けてマクラフリン海軍中佐による「科学者はどのようにフライングソーサーを追跡したが」という記事を掲載、マクラフリン氏はアメリカ公式のプロジェクトグラッジを批判し、「時速25,200マイルで飛行する銀色の物体を科学者が確認した事を発表、これは全米誌で「地球外起源説」を支持し、公式の空軍調査に反論した最初の事例となりました。
この様に空軍の説明と民間研究者の説明のイメージが大きく乖離して混乱を呼んだ事から、1956年に「アメリカ空中現象調査委員会(NICAP)」という民間の組織が設立され、その会長に1957年にはドナルド・キーホー氏が任命されました。一方、空軍ではこのNICAPの創立に対抗するようにUFOプロジェクトを再編し「識別不能事例を最小限に止めるよう」という研究基準を定めたのです。
マスコミは1957年以来、UFO現象については空軍の説明を、そのまま受け入れてきましたが、1965年に入り、テキサス州などでUFO目撃例が再び急増すると、元々空軍の説明に納得いかなかった人々により批判的な報道がなされ、空軍が「公式見解」を述べると、全米中のマスコミが空軍批判を行う事態になっていきました。
空軍の研究が疑い始められた事により、1966年にアメリカ議会ではUFO論争史上、初めてになる公聴会を開く事になりました。そしてこの公聴会では、より詳細なUFO研究を行うため、アメリカ空軍はUFO研究を大学に委託する事が決定され、空軍はコロラド大学がUFO研究を引き受け、エドワード・U・コンドン氏が責任者になる事を発表、ここに「コンドン委員会」が発足する事になりました。
しかしこの委員会ではコンドン氏自体がUFOには懐疑的であり、研究者からは相手にされないUFO目撃例を極端に茶化して取り上げるなど「公平」では無いと言われる点が多くありました。そしてこのコンドン委員会では「過去21年間のUFO研究から科学的知識は全く得られなかった」「これ以上UFOの研究を続けても、恐らく科学の進歩に貢献する事は無いだろう」という最終報告書をまとめました。
空軍はこのコンドン委員会の結論を支持し、1969年にプロジェクトブルーブックは終了、空軍はUFO現象との関わりを断ったという事になっています。