
4.仏教に於ける自我の概念

(1)九識論
さて、ここで再度仏教の観点について振返ってみたいと思います。仏教の中で天台教学では「九識論」というものがあります。再度の振り返りとなりますが、九識論では外界を認識する心の働きとして「眼・耳・鼻・舌・触」というものがあり、それらからの情報を統合して自分自身を認識するものを「意識(六識)」と呼んでいます。そしてその六識の奥に末那識という「自我」の本質があると言うのです。しかしこの自我の奥には「過去からの業(記憶)」を蓄積している阿頼耶識があり、その更に奧に「阿摩羅識(九識)」が存在すると述べています。
これは一つの仮説ですが、ここでいう九識、日蓮はこの識(心の働き)を「根本清浄」と呼び「心王(心の本質)」とも呼んでいますが、これに該当するのがニール氏の「存在のすべて」の一文であり、それが分割されたものが「八識以下」となり、宇宙全体としてフラクタル構造(自己相似)の様に意識が分割されたものが私達一人ひとりの意識という事であれば、この発想というのも仏教の中の一分にも該当すると考えてよいのではないでしょうか。
これはあくまでも私個人の見解としてですが、よく聞く話の中に、他人と心の奥底でつながり、情報が共有されているというのも、これに親しい事なのかもしれません。
(2)原始仏教の自我
パーリ語経典経蔵にある「ミリンダ王の問い」では、紀元前二世紀半ころ、現在のアフガニスタンにあったギリシャ人国家のミリンダ王と、部派仏教長老のナーガ・セーナ師の対話が書かれています。そこでは「自我」という事について、果たして自分の存在の本体はどこにあるのかを、ナーガ・セーナ師が車を通して語っていました。
何を持って車と呼ばれるのか。荷台を以て車と言うのか、車輪を以て車と言うのか、はたまた車軸を以て車と呼ぶのか。ナーガ・セーナ師はミリンダ王に問うていきます。
「いいえ師よ、それは車とは呼ばないでしょう」
ミリンダ王は答えます。
するとナーガ・セーナ師は、各部品が集まり形をなして、車の働きをするものを「車」と呼ぶことを示し、人も同様に内蔵や様々なものが寄り集まり、その上に縁起として自分が存在すると語ります、あくまでも自我は縁起の上に成り立つものでりあり、固有のモノ(例えば霊魂など)があって、それによる自我は無いと語りました。
この考え方は、仏教でいう「無我」という概念にも近いと思われますが、それでは果たして私達が感じている「自我」というものは、常に縁起により起きるものであって、そこには記憶こそ引き継がれはしますが、本当に自我という存在は無いと言えるのでしょうか。このナーガ・セーナ長老の話で、見える形での「自我」は確かに縁起により出現するかもしれませんが、そもそも出現する根源についての解答とはならないのではないかと考えます。
(3)自我に対する考察
この自我、「自分」を認識する心の働きとは何か、そもそも自分というのは何か。これを考えても的確な答えというのは、恐らく得られることは無いと思います。
先の「神との対話」では、この事を考える上で、一つの大事な示唆が含まれている様に感じる言葉がありました。
「他に何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる」
自我というモノを認識するに、他(ほか)、つまり自我とは異る他の存在がどうしても必要もなります。他の存在により実は「自分=自我」というのは存在しえると思いますが、ここでいう「他」というのには、人格的に異る存在もそうですが、自身の五感(五識)で認知できるものがあって、初めて自覚することができるのではありませんか?
そう考えてみると、自我というのは他者やその他周囲のものを認識する事で、初めて認識されるという事なのかもしれません。
その様に考えるのであれば、仏教の述べる「縁起」としての自我という事も故有る説であり、あながち否定できるものではないでしょう。ここで取り上げた「神との対話」という中で語られてている「他がなければ「存在すべて」も無いという事になる」という言葉と、仏教でいう縁起による自我は、実は同質な事を指し示しているのかもしれません。