
1.自分という存在について

この年齢になって「自分」という存在の不可思議さを感じる事が多々あります。天台仏教を元にした日蓮の教学には「九識論」があり、心の働きとして感覚器官から感じた事を統合して、自分自身の存在を認識し、その心は過去から未来の自分について思惟して進んでいく。この心の働きにより、過去(ここでは生まれた時点)から現在、そして未来へ一貫した「自我」が自分自身の心の奥底には常に存すると述べています。
1-1、仏教における無我
私は仏教哲学に関する深い造詣を持ち合わせていませんが、原始仏教や小乗仏教では、この自我は縁起によっておこるものであり、それは蝋燭に燈明が灯り、その灯りが次の蝋燭へと移るように過去の記憶(業因)が縁起による体に受け継がれていくというものであって、過去世や未来世という時間軸で一貫して永遠に存続する自我は存在しないと説いています。
しかし一方、妙法蓮華経の如来壽量品では以下の経文があります。
「然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。」
ここでは釈迦自身(我)が五百塵点劫という途方もない過去に既に成仏していた事を明かしていますが、それはつまり五百塵点劫という長遠の昔から、成仏し一貫した「我」が存在しているという事を述べているのではないでしょうか。
そうなると原始仏教でいう永続的に存在する自我は存在しないという事と、相反する様にも思えますが、原始仏教では無我という考え方を通して、様々な事に執着する事を否定する意味だとすれば、相反しないのかと思われます。
ここでは仏教教学について書き記していますが、仏教では心の仕組み、またその心がどの様に周囲に影響を与えていくのかについては、様々な論が述べられていますが、仏教に於いて、この自我の存在についての考察というのは、あまり為されていないように感じる事もあります。

1-2、梵我一如
世の中の宗教や思想では、「宇宙生命」という単語を使用しています。これは「我即宇宙/宇宙即我」という言葉でですが、この意味合いを端的に語ると、自分自身が宇宙と一体であり、宇宙と自分は不可分という事を指し示す言葉なのかもしれません。
しかしこれは何ら新しい思想などではなく、古代インドの思想の「梵我一如」と同じ事を述べたに過ぎないようです。
〇梵我一如
梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想
最近でも仏教などでは「心の動き」についての思索は深められていると思われますが、この「心」を含めた「自分自身」の存在という事についての思索は「縁起」という事以外、あまり為されていないと思われます。